駅で出迎えた元同僚の外見は、当然だが全く変わっていなかった。その反面、自分の顔――腹立たしいことに目元や口元辺りを見たリュミエールは、驚いたような表情を浮かべている。
主星の中でも、中心からここは遠い。自然が多く、広大な敷地を持つ王立派遣軍の軍学校で、オスカーは教官を務めていた。遥か昔とは言え自分の母校で、今までの長い年月を活かせるこの環境に不満などあるはずがない。年齢と反比例した経験の量と退任時期の重なり具合のせいか、伏せられた経歴を感づいている学生も多いようだ。しかし、かといって誰も口にすることはなく、今や公然の秘密と化している。
退任してからは数年に一度、おおよそ聖地における一年に一度のペースで、研究院から聖地の状況についての報告メールが届くことになっている。その文面は、私的な感情は抑えられたきわめて事務的な内容で、一度目を通したら、ゴミ箱行きにするのが毎回の事だった。
しかし、今回の内容が、水の守護聖のサクリアの衰えと、新たな守護聖候補の覚醒となれば、事情は違う。大急ぎで研究院にコンタクトを取り、自分の居場所について伝言を残しておいたのだった。
新たなサクリアが発見された場合、すぐに聖地から使者が派遣されるのが通例である。その後正式に聖地へ迎えられるまでが一年、その後は聖地の時間にして何ヶ月かをかけて引継ぎを済ませ、先代は聖地を去る。こちらがうかうかしていれば、すぐに向こうでは時が過ぎてしまっただろう。行き違いだけは避けたかった。
「めったにないと伺いましたね。退任した守護聖が存命中……その上老いる前に、他の守護聖までもが代替わりするということは」
「俺だって予想していなかったぜ、まさかまた、お前の顔を見ることになるとはな」
あのオスカーがと、意外に思う者も多かっただろう。彼とは水と油の関係というのが聖地の常識であり、自分たちの上司二人の退任後も、それは一抹の寂しさと共に引きずられていた。「あの二人の置きみやげですね」と、当時のまとめ役が諦めたように笑っていたのを覚えている。
結局、感情を共有する者がほしかったのだろうとオスカーは思う。周りの同僚や学生たちとの関係は良好だ。しかし、どうしても彼らと共有できない感情――聖地で過ごした長い時間や、年月と共に変化していく自分の体への違和感、どことなく感じる周囲とのずれ、などは、誰にも話すことのできないまま、澱のように心の奥底に溜まっていく。実際退任後の守護聖の中には、周囲の環境に適応できず苦しんだ者も多かったと聞いた。
「オリヴィエやゼフェルが話していましたよ、中年太りでもしていたら笑ってやれと」
「誰が中年だ、三十八はまだ若いだろう」
リュミエールの抱える大きな包みは、おそらくハープだろう。手持ちぶさたになったオスカーが片手で担いだのは、それよりも小さく軽いトランクで、中には少しの日用品と画材が詰められているらしい。
現在借りているアパルトマンは収入に見合う物件ではあるが、その分部屋が多すぎる。これ幸いと、しばらく二部屋ほどをリュミエールが使うことになっていた。
「そう長くはならないかと思います。あなたのことですから、お邪魔なこともあるでしょうし」
「……何を誤解されているか知らないが、レディを家に呼んだことは一度もないし、あれからずっとステディもいないぞ」
白状したらこんな顔をするだろう、その予想通りに呆けた顔をしたリュミエールは、片手を挙げて首を横に振った。
「……すみません、少々驚きました」
「気にするな、正直自分でも驚いている」
近場の歓楽街へ一人で繰り出すこともあるが、それもほんの時々だ。年齢が年齢のため、上司や同僚から相手を紹介されることもある。しかし、以前のように派手な火遊びはせず、見合い話も全て断っていた。おかげで『軟派のようで硬派なナイスミドルのオスカー教官』として女子学生に人気が、などと言えば、昔の仲間は腹を抱えて笑うだろう。
「忘れられないのですか?」
「それもある」
それも、という言葉が引っかかったのだろう。そこを追求される前にと、オスカーは話を逸らした。
「で、これからどうするんだ。何か当てでも?」
仕事を探すと言っても、生活のためではない。無収入の状態で外界に放り出されるわけもなく、充分に生活できるだけの年金は支給される。しかし、それとこれとは別問題だ。各自の判断にゆだねられはするが、強制的に社会と関わる手段はあった方がいいからと、何かしらの職に就く者は多い。
「そうですね、いくつか話が来ておりまして。芸術系と音楽系それぞれの王立大学からと、後は王立派遣軍から」
「派遣軍から!?」
「芸術品保護活動の指導を。新しく部署ができるそうですよ」
人命救助をメインに活動する派遣軍も、近年では文化保護も課題となっているため、彼に話が来たらしい。幾時代に渡る芸術の扱われ方を見てきた上に、王立芸術院の監修をした彼ならば打ってつけなポストだろう。
「何はともあれ、学芸員の資格を取る予定です。着任まではしばらく休暇ということになっておりますので」
「資格、ね……今まで取っていなかったのが意外だな、むしろ」
「制度が変わる度に試験を受けていたのでは、切りがありませんから」
今までは特例として扱われてきたが、これからはそうも言っていられない。温室を出てからの特例扱いは、二人とも望むところではなかった。だからこそ、オスカーは自分の過去を職場では語らない。そして、リュミエールもそうなるのだろう。
「こちらでは、あれから何年でしたか。正直言って、あの方が去られてから、あなたもだいぶ変わったものだと思いましたよ」
彼から何かを言い残されていたのか。そう聞かれて、オスカーは頭を振った。
「いや、何も」
少しだけ、目を見張ったリュミエールに、そんなに意外かとオスカーは笑った。
「何も言わなかったんだ、あいつは。忘れろとも忘れるなとも、それどころか好きにしろとすら……退任後の指示は、事務的なこと以外は、俺とお前の関係についてだけだった」
「初耳です」
「そりゃそうさ。今まで言っていなかったんだから」
あれは、彼が聖地を出る数日前のことだった。
『別にね、今さらあなたたちが仲良くなったからって、誰もあの二人を忘れやしないんですよ』
時間を惜しむように茶をちびちびと飲むオスカーに、彼は確かにそう言った。何の話だと眉を寄せつつも、ある程度の図星を突かれて内心狼狽していたのを、未だに覚えている。
もちろん、自分たちの不仲の理由がそれだけではないことは、彼にも分かっていた。それでも、理由の一つであったことに間違いはない。リュミエールも同じであったようで、渋い顔をして額を押さえている。
「で、先ほどのそれもあるとは、まだ気持ちの整理が付かない、と?」
「いや、実はそれだけでもないんだが……」
結局どういうことだと眉をひそめるリュミエールを、すぐにわかるとなだめる。説明するよりは、実際に目の当たりにした方が早い。
「着く前に、ちょっと付き合え」
アパルトマンの数ブロック手前で、オスカーは道を逸れた。数軒の店や住宅を通り過ぎ、一軒の店の前で立ち止まる。
紹介するかどうかは、まだためらいがある。しかし、これから一緒に生活をするならば、隠せるはずがないのだ。それならば、最初から話してしまった方が手っ取り早い。ドアに手を掛け、いぶかしがるリュミエールを振り返った。
「一人、お前に紹介しなきゃならんやつがいる。そいつを見て、万が一思うことがあっても何も言うなよ。いいな」
重い音を立てて開く扉の先には、本棚が森のように林立していた。そのさらに奥のレジカウンターでは、一人の少年が座って分厚い本を読みふけっている。こちらに気付かない彼のために、オスカーが壁に下げられたカウベルを鳴らすと、少年が驚いたように顔を上げた。その顔を見て、隣でリュミエールが、え、と小さく声を漏らす。
青い髪の少年だった。不釣り合いなほど大きな眼鏡をずり上げてこちらを見ると、ぱぁっと顔を輝かせてカウンターの椅子から飛び降りる。
「おじさん。いらっしゃい!」
記憶に残るものよりも、オクターブ高い声を聞き、わずかにリュミエールの身体が緊張したように揺らいだ。肘で彼を小突き、ぱたぱたと駆け寄ってきた少年の頭をなでる。
「だからおじさんはやめろ、ちび。ちゃんと飯は食ってるか?」
「うん、食べてるよ。あ、この間くれたおせんべい、美味しかった。ありがとう」
カウンターに置かれているのは、明らかに大学レベルの哲学の専門書籍だ。ティーンに手が届くか届かないかというくらいの少年が読むには、どう考えても似つかわしくない。
「おじさん、えーと、このお姉さ……お兄さんは?」
首を傾げ、まずは自分からと少年がしてきた自己紹介には、リュミエールには聞き慣れない名前だっただろう。それでも硬直する彼の足を、言わんこっちゃないとこっそりと踏みつけて正気に戻す。
「ああ、失礼しました、リュミエールと申します。彼の古い友人なのですが、しばらく厄介になることになりましてね、ご挨拶に伺いました」
にこりと笑ったリュミエールの、初めましてという声に、少しだけ取り繕った響きが残る。また来るからと言い残し、オスカーたちは店を出た。
「オスカー、あの子は」
「お前の反応を見るに、どうやら俺の勘違いってことではないようだな」
名前も違い、性格も『彼』より幾分か快活であるようだ。しかし、声や面影、何よりも瞳の中の光は、『彼』そのものとしか思えない。
「まだ何もご存じないようでしたが……」
「記憶は何もないみたいだな。ただ、あいつの爺さんから聞いた話では、昔から大人でも難しいような本を読みこなしていた、と」
軍学校が身近な環境からか、この街には軍人志望の子供が多い。体力不足で、しかも変に大人びた性格の彼は学校生活に馴染めず、祖父の経営している古本屋の店番という名目で、売り物の本を日がな一日読んで暮らしていた。
「研究院へ報告はされたのですか?」
「先代地の守護聖の転生した子供がこの街に、ってか? できるわけないだろ」
面影があるとは言っても、言われてみれば確かに、というレベルの物だ。確証はなく、下手に報告をすれば、彼の一生に影響を及ぼしかねないだろう。
納得したかと、オスカーは天を仰いだ。この町の空はずいぶんと高い。
「こんな状況で次の恋なんて言えるほど、俺も吹っ切れちゃいないんでね」
よくわかりました、リュミエールの声色は、半分呆れたような響きがあった。これからどうするのかと、先ほど自分が聞いた質問を投げられるのは予想済みだ。
「気長に待つさ。どうせ今までずっと待たせていたんだ、それと比べたら、十年や二十年どうって事ない」
一人になることで感じたむなしさや疎外感。それを退任してからの八年間、オスカーは嫌と言うほど味わってきた。しかし、それも今日リュミエールが来たことでで終わりとなる。
しかし彼は、そして今まで出会ってきた守護聖たちは、どんな一生を終えたのだろう。自らがアウトサイダーであるという事実から逃げることを許されず、感情を共有する相手も存在せず、それを抱え込みながら、何十年もの日々を耐えてきたのだ。
彼が聖地を去った後は、自分の感情を整理することで手一杯で、初めて彼の苦しみに思いをはせたのは、退任してからしばらくたった頃だった。残りの数十年間を、彼は何を考え、何に苦しんで生きたのか。それを思ったとき、その場にいることができなかった自分を許せなかった。その矢先に出会ったのが、あの少年だったのである。
何はともあれ、今はただそばにいたい。思い出してくれれば嬉しいが、そうでなかったら、そのときはそのときだ。
「それが今はベストでしょう。ですが、犯罪行為だけはやめてくださいね」
「なんだ、信用がないな」
「おや、信用があるとでも思っていたのですか。それもこの手の話で」
自分以外の人間にはめったに口にしない、妙にとげのある口調。八割方腐れ縁でできているような彼との関係性は、どうやらタイムラグがあったとしても変わりはしなかったようだ。
「まあ、思い出すなら早いほうがいいけどな。少なくとも俺が爺さんになる前には……」
すまんルヴァ、どうやらあんたの望むような感じには、俺たちは当分なりそうにないよ。
草原を渡る風は、今日もいつもと変わらない。
初出:2015-5 同人誌