「さっぶ! いや、さっ、ぶ!」
笹貫がこの身を得たのは、夏の盛りだった。知識でしか知らなかった冬を体感するのは、これが初めてのこと。
呼吸をするたびに、空気を通す鼻が冷えていく。身をこごめ、せめて風除けにと前を行く広い背中に隠れつつ廊下を歩く。
広縁タイプの廊下にも暖房くらいあるが、ないよりはマシという程度だ。そもそも面積が広いし、窓から伝わる冷気が電気代をいたずらに浪費する。
「え、ちょ、待って、外行くの!?」
共通点らしい共通点は、来た時期がそこそこ近いというだけ。一緒に畑当番に放り込まれた江の打刀は、からりと渡り廊下への引き戸を開けた。
「……我も今までは縁がなかったが、まさか存在すら知らないということはあるまいな」
「いや、そんなこと言われても何がなんだが」
寒い寒いと涙目でぼやき続けていたら、作業終了と同時にどでかいため息とともに引きずられてきたのだが。てっきり談話室のこたつにでも行くのかと思ったらまさかの屋外である。
ぴゅう、と吹きすさぶ木枯らしに、ひえぇと口が勝手に盛大な悲鳴を上げる。「……軟弱な」という稲葉江のぼやきに反論する余裕もない。
永遠に思える渡り廊下だが、当然そこまで長いわけがない。笹貫の目に入ったのは、すぐそこに見える厨の入り口のとなりで、ひらりとはためいた掛け軸だった。
『居酒屋 あるじ』
「……あー、もしかして、これかぁ」
聞いたことはある、不定期に開かれる〝店〟があると。店といっても店主の息抜きや道楽を兼ねているため、お代はいらない。開店の目印は、厨の入り口にかけられる小さな掛け軸の看板のみ。
扉を開き、のれんをくぐる。ほわりとした暖かい空気に、こわばっていた表情筋がじわりとゆるんでいった。
「あら、いらっしゃい」
珍しいねと二振りを見て笑ったのは、厨備え付けのエプロンをつけた主だった。
「……そいつが、今日やるらしいと言っていた」
「うん、大正解だったよねぇ」
えびす顔でビールジョッキを傾けるのは、桑名江。糧食や調理に日常的に関わっていると、なんとなく「近いうちにやるな」といういうことが分かるそうで。
「内番お疲れさま、寒かったでしょ。何飲む?」
「え、やっぱ酒だよね? 芋ある?」
「あるよー。お湯割りにしよっか」
「我は熱燗を」
「はいはい」
酒を注がれた徳利を鍋に張られた湯につからせたら、湯飲みをひとつ。酒ではなく、先に湯を入れたら、焼酎の瓶を傾ける。
はい突き出し、と手渡された小鉢には、茶色に染まった豚肉と煮卵が鎮座している。とろけるというやつではなく、しっかり噛みごたえがありつつも適度に軟らかい煮豚に、醤油のシンプルな味付けがしみている。
湯飲みを手に取ると、湯気と一緒にアルコールの刺激と一緒に甘みと言えなくもないような香りが立ち上る。聞きなじみのある山の名を冠したラベルは、夕焼けのような紅に染まっていた。
「……うんまぁ」
果実や花のように芳醇なだとかなんだとか、そんな高尚な品評ができるほど味が分かるわけじゃない。ただ、この組み合わせが最高だということは分かる。
「ビールにも日本酒にも、わりと何にでも合うよねぇそれ」
えびす顔でくぴくぴとジョッキの中身を減らす桑名は、なにやら棒のようなものをじゃくじゃくとかじっている。
「桑ちゃんなに食べてんの?」
「ゴボウの唐揚げ、メニューそこだよ」
一本食べるかと回ってきた皿から、一本つまんで添えられた七味マヨネーズを少しディップ。スパイシーな胡椒に醤油味が、ほくほくとあたたかい土の香りがするゴボウに染み込んで、そこにマヨのまろやかさと唐辛子の刺激が……
「なにこのビール飲むための棒うっま」
「ハイボールも合うよぉ」
カウンター兼作業台には、クリアファイルに挟まったメニュー表が置かれている。ぺらりと手に取ったその文面を指でなぞり、笹貫はうぐぐぐぐと眉根を寄せた。
「えー、どうしよっかな。すき焼き風肉巻き豆腐とか絶対美味いよねぇ……」
「うん、昨日作って寝かせておいたから味しみしみだよ」
味しみしみ。その言葉に勢いよく顔を上げると、店主のおかしそうな笑い声が上がる。
主の傍らには、保温のランプがついた卓上調理器がずらりと並ぶ。その上に設置された鍋のひとつから、彼女はひょいひょいと肉巻き豆腐とネギに結び白滝を引き出した。
手渡された小さな煮物鉢は、じわっと重い。思った以上にずっしりとした豆腐を箸でつまみ、たっぷりの汁気を含んだそれを、行儀が悪いことは承知の上で自分から迎えに行く。
じゅわん、と口の中で温もりが爆発した。
かぶりついた豆腐は、甘辛いすき焼き味でうっすら染められている。二重三重に巻き付けられた牛肉は、内側にいくほどやわらかい。
「はー……最高」
少しぬるくなった焼酎を口にして、深々とため息をつく。牛のうまみが溶けだした割り下でくったくたに煮込まれたネギも、結び目にたっぷり汁を含んだ白滝も、ここまでくればいっそ暴力的だ。
「あったかー……しみる……」
「あらよかった、今度夕飯に出そうかと思ってるんだけど、どうかな」
「……分量作るの大変じゃない?」
賭けてもいいが、こんなもの夕飯に出した日にはいくら平和な本丸といえど取り分によっては私闘騒ぎが起きかねない。でもこれで飯をかき込みたいだろうと聞かれたら、否とは言いようがないわけで。
「稲葉は? 何か頼む?」
「ああ……我はこいつを」
「はーい」
指さされたメニューを確認して、主がまた別の鍋を開く。その料理名を見て、聞き慣れなさに笹貫は首を傾げた。
「まあ、確かに肉の量がねぇ……キノコでかさましして、代わりに温玉載っけてみよっか」
「ちょっと、なんてこと言うのさ……!」
さらなる火種を追加するな。思わずがたりと立ち上がってしまうと、タイミング悪く厨に入り口ががたりと開いた。
「わーい、やってるやってる! あるじー、次郎さんがきーたよー!」
「よーっす……お、何だ何だ酔っぱらいか?」
冬景色の向こうから、冷たい風がわずかに吹き寄せる。ただならぬ様子の笹貫に、次郎太刀と日本号が冷やかしの声を上げた。
「違う違う、ほら寒いから早く入ってドア閉めて!」
冷蔵庫からボウルを取り出しながら、常連らしき二振りに主が小言を飛ばす。はーいとしおらしく入店してきた彼らは、勝手に冷酒の瓶を飲み物用の冷蔵庫から取り出していた。
誤解だ聞いてくれと、かくかくしかじかと説明する笹貫の言葉に耳を傾け、一切れずつ拝借した肉巻き豆腐をかじってグラスを傾け。真剣な顔つきの二振りにあきれ顔を向けながら、主は稲葉に注文された天ぷらの皿を渡してやっていた。
「……うん、こいつはまずいな。生なかな量じゃ足りねぇぞ」
「アタシですら白ご飯の誘惑に勝てるか分かんないよこれ……まあ今日はお米のジュースにするけどさ」
「でっしょー!?」
「えー、でもそんな大量に作るなら、もうすき焼きにしろってことにならない?」
「いっそ豚バラでもいいんじゃないかなぁ、手伝い要員は集まりそうやん?」
桑名の提示した解決策に、それだと主が叫ぶ。天才がいたと騒ぐ自分たちに、稲葉が付いていけないとため息をつきながら丸っこい天ぷらに歯を立てて猪口を口にした。
「ッ……う」
とたんにこぼれた低い声に、何事かと部屋が静まりかえる。こちらの反応に、稲葉江はばつの悪そうな顔でしぶしぶと続きを口にした。
「……ま、い」
「えぇー……?」
それほどか。この感情の起伏を表に出さない男が、ここまで動揺するほどか。再び里芋を口の中で転がす稲葉江に、桑名が口の端を静かに痙攣させている。
「さっき頼んだやつでしょ? そんなに?」
煮物の天ぷら、と聞き慣れぬ料理名を口の中でつぶやくと、爆笑する常連組をよそに、まあ食べてごらんと主が再びボウルを取り出した。
水気を切った煮物に衣をまとわせて、フライヤーのなかに。ぱちぱちという音が細やかなものから威勢よくなったら、ちょいちょいと油を切ってキッチンペーパーを敷いた皿の上に載せる。
はいどうぞと渡されたそれから、一個をつまんで口にする。ほくりと割れた断面からは、待ちかねたように湯気が上がった。
「お、おおぅ……」
ねっちりとした芋に、塩っけはごく僅か。うまみパワーでひたすら殴ってくる混合出汁とは違う、鰹出汁単体のたおやかでありつつも力強い味。しゃちほこばってしまう上品さを、天ぷら衣という適度なジャンクさが親しみやすくアシストしている。笹貫は、黙って少なくなっていた湯飲みの中身を飲み干した。
「オレも熱燗くださーい!」
いいから黙ってポン酒を頼め、脳味噌がそう叫んでいる。
「はいはい、お水も飲んでね」
差し出された湯冷ましを飲んだら食べかけの天ぷらをもう一口、そうして徳利があたたまるのをじりじりと待つ。まあ気持ちは分かると苦笑いする主から熱源を猪口とセットで受け取るやいなや、手酌で注いだそれをくい、と一口。
「う……ふふふへへ……」
「あー、分っかる分かる。アタシもこれ食べるたびにこうなってる」
美味そうに食べてるとこ見るとこっちも食べたくなってくるんだよ、と次郎太刀も天ぷらをひと皿追加。日本号はスルメと大根の煮物を幸せそうに頬張り、桑名はポテサラに煮卵の半熟の黄身を絡めている。
「お、不動から連絡が来た。福島とこっち来るとさ」
「あら、お茶か弱いの準備しとく?」
「いや、弱いのはたいてい飲みやすいからな。逆に酔いが自覚しやすいやつがいいだろ、燗つけといてやってくれ。あとはこっちで白湯でも飲ませとく」
だんだんとにぎやかになっていく厨に、笹貫も端末を取り出す。自分以上に寒さに弱く、今ごろ彼の兄弟たちと一緒にこたつに潜り込んでいるだろう誰かさんとのトークルームを出して、逡巡してからホーム画面に戻った。
「……いつやるの、次」
「んー、いつだろうねぇ。お仕事が一段落するころ、かな」
もうちょっとあたたかい季節になれば、さらっと誘えるようになったりするんだろうか。ちびちびと徳利の中身を減らしつつ、残りの里芋をかみしめる。
「次は前割りでも作っておこうか、事前にお水で焼酎割って寝かしておいたやつ」
「へぇ……酒といえば芋って感じだけどさ、詳しいわけじゃないんだよねぇ」
顕現するまで酒をたしなんだことはなく、ただ自分のルーツからきているらしき刷り込みがあるだけ。それだけではあるんだけど、やっぱり飲んでいてしっくりくるのは芋焼酎だ。
「……芋に合う肴って、どういうやつかな?」
「そうだねぇ、変わり種だと」
これ飲んだらもう一杯お湯割りもらおう、そう考えつつ口にした疑問に、今日のメニューにないけれどと主は想像と真逆なものを答えた。
「サツマイモのバター砂糖醤油とか?」
「……マジで!?」
「芋に芋ぶつけるのも一種の手だよ。あとは、そうだなぁ」
ふむ、と顎に手を添えて、主は優しげに笑った。
「九州料理かな、やっぱり」
土地の酒は、土地の肴と。それが、迷ったときの近道だ。
「……つけ揚げ食べたい」
「オッケー、頑張って開店日気付いてね」
手作りしちゃおうかな、なんて言われたら勝てるはずがないだろう。いっそ脇差の能力を期待して、思い切って誰かさんに声をかけようか。
どうしようと頭を抱えていると、里芋も最後の一個になった。次に頼むものを考えていると、またからりと扉が開く音がした。
「主よ、新顔を連れてきたぞ」
小烏丸の後ろでは、七星剣と抜丸が中をのぞき込んでいる。突き出しの小鉢を出され、あたたかい二合入りの徳利とお猪口が三つ渡っていく。
「おお、やはり寒い時節はこれよな」
「……昼間ではあるのだが、まあたまには酒も悪くなかろう」
半分に割った煮卵を頬張り、さすがの七星剣も眉間の皺をゆるめている。小烏丸に酒を注がれ、彼おすすめのクリームチーズ三種盛りを物珍しそうにつつきながら、抜丸が猪口をちびりと口にした。
「耳にしてはおりましたが……主さまが給仕をされるとは」
「まあ、道楽だよね。万屋街もそこまで居酒屋あるわけじゃないし、やっぱり恋しくなっちゃって」
店で飲む酒と家で飲む酒は違うことを、本丸にいるとなかなか実感できない。だからこうした〝非日常〟を演出するのだと、店主はやわらかく微笑んだ。
「確かに……顕現する前は、このような肴は知りもしませんでしたし」
酒盗が絡んだチーズを口にした彼の頬は、じわりとうれしそうに上がっていく。
「抜丸さん抜丸さん、これ美味いよ」
ちょっと冷めかけてはいるが、十二分に美味い。笹貫は、最後のひとつが残った天ぷらの皿をそちらに押しやった。
「これは……」
「里芋の煮物天ぷら」
不思議そうに、よろしいのですかと首を傾げつつ抜丸が里芋をはくりと食べる。自分の後に顕現した唯一の後輩は、実年齢にそぐわぬ表情で顔をがばりと上げた。
「ねー、美味いよねー?」
こくこくとうなずく勢いは強く、礼を言う声は明らかに上気している。こちらを見ていた小烏丸が、にこにこ顔で三振りで分ける用の天ぷらを追加注文した。
「……先輩風」
ひとつ先輩である打刀のあきれたような声が聞こえてくるが、うっちゃらかしておこう。彼だって、自分を連れてくるときに同じ風をぴゅうぴゅう吹かせていなかったとは言わせない。
「あーるじ、オレ次はブリあら食べたい! お湯割りも!」
「はいはい、ちょっと待っててね」
居酒屋あるじ 本日のお品書き
突き出し
煮豚・煮卵のセット
スピードメニュー
クリームチーズ三種盛り
(味噌漬け・いぶりがっこ・酒盗和え)
ポテサラ(おかか醤油or煮卵)
温奴揚げ玉のせ
煮物
スルメと大根の煮物
里芋の煮物
すき焼き風肉巻き豆腐
ブリあら煮
揚げ物
里芋の煮物天ぷら
ゴボウの唐揚げ
〆メニュー
きのことお餅のみぞれ汁
※ビール・ハイボール・割材はセルフサービス
※次回開店日は不定期。ある程度は情報共有可
※お酒は楽しく、適量を
初出:2022-12 Twitter