私が聖地にいたころ? ずいぶんと昔のことをご存じですのね。ええ、ええ。このようなお婆さんの昔話ではありますが、あなたのお役に立てるのならばお話しいたしましょう。
あれは、私が十八の春でした。同じく聖地への赴任が決まった学友たちと一緒に門をくぐって……今でもまるで、昨日のことのように覚えています。
常春の気候に、平和に暮らす人々、そして道を行けばすれ違う守護聖様に女王補佐官様……あのころはまだ小娘だった私には、まるで子供のころ夢見たおとぎの国にいるような心地でしたとも。
今はそう思っていないのかって? そうですわね、私もそれなりに年を重ねてきましたから。
私が配属されたのは、王立図書館の司書室でした。そう、ちょうど鋼の守護聖様の交代直後で……ええ、もちろん覚えていますよ。
若手少女たちにとっての花形といえば、やはり守護聖様方の私邸や、宮殿でのお仕え役でした。ですから、私はいわばハズレを引いたように扱われ、おかしな同情もされたものですが……元から本や勉強は好きでしたし、今でも適材適所であったと思います。
あれはそう、私が仕事にもだいぶ慣れてきたころの話でしたかしら。
あの日私が担当していたのは、閉架書庫の閲覧カウンターでした。図書館でも奥まった場所にあったものとはいえ、それまで見たどの図書館のそれよりもかなり大きく、ここは宇宙の中心であることを否応なしに自覚させられます。
「悪い、ちょっとかくまってくれ」
「ゼフェル様!?」
その少年の顔は、見知っておりました。いえ、その、少々よろしくない話と一緒に。
「あんたの仕事の邪魔はしねぇよ。静かにもしてるし、見つかりそうになったらすぐに出てく」
この場所の主とまで言われている守護聖様のことを、職員が慕っていないはずがありません。そのこともあって、その方の悩みの種となっている新米守護聖様のお名前を先輩方が話すとき、少し私たちの耳には少し棘を含んだように聞こえていたのです。
けれど、私は同年代の彼をあまり悪くは思えませんでした。いくら自ら望んだ進路とは言え、私自身も人の時間の流れから抜け、親元を離れた身です。しかも、就任時何があったのかも伝え聞いておりましたし。先輩方のように、眉をひそめることはできませんでした。
「……ここでよろしいのですか? お相手は、その」
「だからだよ。あいつ、俺が図書館にいるなんて思っちゃいねぇだろ」
カウンターの後ろで身を屈めて隠れる彼を、追い出すことなどできません。謝罪の言葉を口にして、彼は小さく呟きました。
「あんたらもさ、大変だよな。守護聖だからって、こんなガキ相手に様付けだの敬語だのさ」
ああ、彼は全部知っているのだ。そう思いました。私たち職員が、どんな視線で自分を見ているのか。
「その、機械にお詳しいと伺っているのですが……勉強は」
先輩方の噂話はともかくとして、勉強自体を嫌っているようには、私にはどうしても考えられませんでした。しっかりとした専門分野のある方が、学ぶことを嫌うはずがありません。
「……勉強は、嫌いじゃねー。ただ、守護聖としてどーのこーの言われんのが」
ジュリアス様直々のお願いとはいえ、ルヴァ様もお気の毒ね。それがここの職員からの彼への評価でした。同期の少女たちの間でも、怖い、近寄り難いなんて陰口は日常茶飯事です。
面と向かったものでなくても、悪意は好意よりも伝わりやすいのが常ですから……この少年のことを、あのお方が疎ましく思っているなんて、絶対にないのに。
「守護聖なんか、なりたくなかったのに。自覚なんて持てるかよ」
悪い、喋りすぎた。そう呟いて膝を抱え込み、そのまま彼は黙りこくってしまいました。
困ったものです、なんて話すルヴァ様のお声が、悪意だけではないことも、守護聖様の間に漂うものが、少しずつ良いものに変化していることも、ぼんやりとではありますが感じていました。しかし、いち職員でしかない私が、彼になにを言えたでしょう?
それでも下っ端なりに、彼のことは誰にも――たとえジュリアス様がおいでになっても、話しはしまいと心に決めておりました。今思えば、若さからくる青い正義感でしかあり得ませんが……
人気の少ない館内の一角は、誰かが来ればすぐにそれと分かります。それを察知した私は、カウンターの下へと小さく合図を出しました。
気さくな性格の、緑の守護聖様。図書館にはよくおいでになるお方ですし、初対面というわけではありませんでした。悪い方では、まったくありませんが……それでも、訪ねてきた理由は、言わずもがなです。
「やあお嬢さん。つかぬことを聞くが、うちの腕白坊主がこちらで世話になってはいないかな」
「いいえ、カティス様。こちらには、どなたも」
守護聖様――それも、九人の内では上位のお方を相手に、確実に不敬である自覚はありました。視界の端で、ゼフェル様が驚いたような顔をされていたことを、今でも私は忘れられません。
それでも、かなり年長者のカティス様が、小娘の動揺を見破れないはずがありません。困ったような笑顔で、彼はカウンターの奥へと小さく呼びかけました。
「おーい、出てこい。俺は別にいいんだが、後でバレたらとばっちり食らうのは彼女だぞ」
「……るっせ、わーってるよ」
慌てる私を、ゼフェル様は呆れたようなお顔で制して立ち上がりました。
「んだよ。俺はぜってー戻んねーからな」
「あー、気にするな。別にお前さんを引きずり戻しに来たわけじゃない。騒ぎ起こしても、お嬢さんに迷惑だからな」
クラヴィスが茶に誘いに行った、ほとぼりが冷めるまで後一時間くらい頑張れ。カティス様は、そう仰っていたずらそうに微笑まれました。
「ま、たまにはな、あいつの顔も立ててやれ。いくら守護聖でも限界ってのはあるからな、ルヴァの胃とかジュリアスの毛細血管とか」
冗談めかすカティス様のお言葉にも、ゼフェル様の眉間からしわは消えずじまいでした。それから、そう、迷うように数度開いた唇が、小さな声を吐き出して……
「……あのオッサンが俺の面倒見てるのは、俺に同情してるからじゃねえ、地の守護聖だからだろ」
そう話されたのは、お相手がカティス様だったからでしょう。浅黒い手のひらが、何かを恐れるように、固く握りしめられました。
「守護聖に、キョーヨーに欠けたやつがいんのが我慢できねーだけだ」
そんなことはと、思わず口を挟みたくもなりましたが、私はあくまでも部外者です。とにかく背景に溶け込もうと、必要のない書類整理を始めながら、緊迫感に跳ねる心臓を押さえつけていました。
それに、正直に言えば……その言葉を一概に否定できない気持ちも、確かにありましたから。
知識を持ち、追い求める者が、多かれ少なかれどうしても捉えられてしまう傲慢さ。あの方もまた、それからは自由でいることはできなかったのでしょう。それに気づく職員は、あまり多くはありません。なぜって、『そちら側』の人間が担当する仕事ですから。もともと違う側に育ち、あの方とおそばにいらっしゃるゼフェル様だからこそでしょう、それを感じられたのは。
「……そうかもしれないなぁ」
少しだけ、困ったようなカティス様の声に、私はもう驚いて驚いて……
二人とも、意外と昔から仲が良いのよ。正反対のように見えるけれど、だからこそかしら。先輩との他愛ない雑談で、補佐官様はそうおっしゃっていたはずです。実際、図書館どころか公園など、いろいろな場所でお二方がご一緒しているところを、私もお見かけしておりましたし。
そうしたご関係からは、今の肯定の言葉は予想だにしなかったものです。私と同じように驚かれたご様子のゼフェル様の肩を、彼はおどけるように小突きました。
「ただ、これから先はどうなるかわからんぞ。その辺は、まあ嫌な言い方をすればお前さん次第だな」
少し突き放すような言葉とは裏腹に、その顔は穏やかに笑っていらして。何かが胸に落ちたのか、ゼフェル様もそれ以上の言い争いはされずに、連れだって聖殿へと戻られていきました。
悪かった。そう言って私に頭を下げた少年の頭を、カティス様はにこにこ笑って撫でていました。そう、あれがすべてのきっかけです。
「あー、先日は、うちのゼフェルが失礼しました」
「え、と……なんのことか、恐れながら私には」
個人的にお話をする機会は、あれが初めてだったでしょうか。いえ、お会いする機会はもちろんありましたし、ご苦労様、とお声をかけていただくことだって……
九人の守護聖様のなかでも、失礼を承知で言えば、いっとう地味に見えるお方でした。けれど、それはあくまでも『見える』というだけで……整ったお顔に穏やかで思慮深いお人柄、全宇宙の知識の頂点に立つ者としての、深い知識。いわゆる隠れファン、という女性は、引けを取らなかったのですよ。
そのようなお方相手にあんな返答、自分でもたいそう勇気がいるものでしたとも。それでも、口止めされていないとはいえ、墓穴を掘ってしまうような出しゃばりは避けたかったのです。そんな私をそれ以上追求することなく、彼はおやおやと笑顔を浮かべられて……
「いえ、こちらの話ですよー」
なにがあったのか、全て承知の上でしょうに。あのお方――ルヴァ様は、満足そうにうなずいておいででした。
今思えば、あれはテストだったのかもしれません。あのとき、調子に乗って余計なことをぺらぺらと喋っていたら、どうなっていたことやら……
「年齢も、育った時代も近い相手がいることは、きっとあの子にもいいでしょう。もし気が向いたら、懲りずに相手をしてあげてくださいね」
そうおっしゃったあの方が、あの少年の気持ちをどこまで知っているのか。私がそれを知る機会は、ついぞありませんでした。
それからです、守護聖様がたが私個人とお話をしてくださるようになったのは。
OPACの使い方を、ゼフェル様と二人がかりでランディ様にレクチャーしたり、園芸関係の新着図書の情報をカティス様にお伝えしたり……けれど、何より心待ちにしていたのは、ルヴァ様が図書館にいらっしゃるときでした。
最初は、ゼフェル様とお話中のことだったかしら。確か、閉架書庫の仕組みについて彼に質問をされて……私は機械の構造なんて存じませんから、答えに詰まっている最中でした。
「熱心なのはいいですが、あまり彼女を困らせてはいけませんよ」
ころころとおかしそうに笑うルヴァ様は、職員と一緒のときとはまた違った、柔らかい表情をされていました。慌てて礼をすると、私の目に意外なものが飛び込んできたのです。
特徴的な表紙を、見間違えるはずがありません。慣れ親しんだ、少しばかりマイナーな児童文学のタイトルを思わず口にすると、あなたもお好きなんですかと、穏やかなお顔が嬉しそうにほころんだのです。そのときの私の高揚感といったら!
雲の上のように思っていた地の守護聖様が、いち職員である私と同じ本を読み、親しげにお話をしてくださるなんて。目を輝かせる私を見たゼフェル様は、やっぱ図書館員だよなぁ、と呆れたように笑っておいででした。
それからです、ルヴァ様がお読みになった本を、ときどき私にお勧めしてくださるようになっったのは。お話について行けるようにと、必死になって分厚い文学から専門書までを読み解いたものです。
宇宙すべての叡智を司るお方が、知識を共有する相手として、私個人と向き合ってくださるのです。若い娘心が舞い上がることに、そう時間はかかりませんでした。
自覚は、ありました。この気持ちは、自分の内側だけに留めなくてはいけないことも。
なぜ、って……
私は一介の図書館職員でしかありません。しかも、お相手はルヴァ様ですよ? 軽々しく告白などしても、戸惑わせて、困らせてしまう未来しかないでしょう。
守護聖様でも、オスカー様のようなタイプのお方でしたら、多少はそうした噂話も流れてはきましたが、あの方は遊びと割り切ったものでしたし。ルヴァ様の性格と、図書館という職場の特性上、恋愛感情などは業務上支障の出るものでしかないでしょう?
私はそれまで以上に、訪れた幸運は偶然の産物であることを自覚して、身の程をわきまえた行動を心がけるようになりました。別の部署にいる同期とのお茶会でも、そうした話は上手くはぐらかしたりもして。
それでも、分かる方には分かっていたのでしょうね。「難儀な娘だね」とオリヴィエ様に慰めていただいたこともありましたし、「いやー、残念だ。俺だったら、そんな顔はさせないんだが」とオスカー様に笑いかけていただいたことも、そこに通りかかったリュミエール様に「見る目が高いのでしょうね、きっと」と微笑まれたことも……みなさま、具体的にはなにもおっしゃりはしませんでしたが。
ひょんなことがきっかけとはいえ、目をかけていただいて、同僚たちからは、多少のやっかみのような視線も向けられてはいましたが……私が気持ちを表に出さない上、絶対に一線を越えようとしなかったこともあったからでしょう。あからさまなことは、されませんでした。
そんな日々を重ねていくうちに、さすがの聖地でも時は進んでいきました。私も仕事に慣れ、後輩ができて、指導する立場になり……初の、守護聖の交代を経験することになりました。
大丈夫? お顔の色が……そう。では続けますね。
サクリアの減退と新たな守護聖様の覚醒といっても、下の職員が直接担当する業務はありません。必要な手続きや作業はベテランが請け負い、私たちはいつも通りの仕事を続けるだけでした。ただ、カティス様から個人的に、新任の守護聖様のバックアップをお願いされましたが……
……これをあなたに話してしまって、本当にいいのかは分かりません。それでも、お話しするべきなんでしょうね。
だって、あなたが一番私から聞きたかったことは、このことでしょう? あのお二人もきっと、あなたになら……今のあなたになら、大丈夫だと、許してくださると思います。いえ、私の願望ではありますが、きっと。ふふ、ええ、気がついておりましたとも、最初から。
話を、戻しましょうか。
あれは、カティス様の退任が決まり、しばらくしたころ。明日には後任のお方が到着するだろうという日でした。
図書館の中は、基本的に暗いものです。けれど、数カ所ほどはUVカット加工をされたガラスやカーテンを使用した明かり取りの窓がありました。
……そこは林立する本棚の、ちょうど死角になる場所でした。時刻はそろそろ、空が赤くなるころで。私はちょうど、返却された本を戻している最中。小声で談笑されているお二人を、棚の隙間からお見かけしたのです。
お声をおかけしようかと思いましたが、やめました。どっちみちそちらの棚にも行くのだから、そうしたらご挨拶をすればいい、と。次の本を返すために踵を返そうとした、そのときでした。
空気を入れ換えている最中だったのでしょう。窓にかけられたカーテンが風にあおられ、ルヴァ様のお身体をふわりと覆いました。
全てがスローモーションのように、私の目に映りました。カティス様の手がルヴァ様の頬に伸びて、そのままお二人の顔が近づいて、そして……
ショックは、そうですね、不思議とありませんでした。端から身の程知らずな感情ではありましたし、成就を願ったことなど……ただ、私はあの方からの「ご苦労様です」があれば、それで。
ただ、きれいだなと、そう思いました。逆光になった、わずかな日の光に照らされて、幸せそうに微笑みあうお二人が。
カティス様もルヴァ様も、悲壮感もなにもなく、ただその時を噛みしめるように、惜しむように、ただただ幸福という言葉を体現しているかのようでした。宗教画のような、そんな美しい一場面は、今でも私の脳裏に染み着いて離れません。
返却図書のカートの車輪が、きしまなかったことを本当にゼフェル様に感謝しました。あんまりキイキイいうものだから、その数日前に彼がメンテナンスをしてくださったばかりだったんですよ。
……その後、ですか。お二人とも、いつもの通りでした。まるで、あの場所で私が見たものは夢だったのかと思えるほどに。次の日には後任の方がいらして、守護聖様方の日々もあわただしいものになりましたから。
仲がよろしいとは伺っておりましたが、他のみなさんには、なにも打ち明けてはいらっしゃらないようでした。いえ、今思えば、みなさまの中でも数人の方は知らないふりをしてらしたような気もするのですけれどね。
カティス様が聖地を去り、時が流れ。ルヴァ様のご様子は、それまでと変わらないように見えました。それでも時折、あの窓辺にぼんやりとたたずんで、まるで誰かを探すように虚空を見つめるあの方を私は見かけて……声をかけるなんて、できやしませんでしたけれど。
そして、その後は――いえ、私の昔話はここまでにしましょうか。だって、あくまでも部外者だった私より、あなたのほうがお詳しいでしょう?
窓の外には、もう朱に染まっている。出した紅茶は結局飲まれないまま、女性と青年の前ですっかり冷め切っていた。
若いころ――誇張ではなく、気の遠くなるほど昔の話だ。あれから長い長い時を経た後、聖地を出て入所した介護施設の一室で、こうして自分は一人で朽ちていく。
あのころから今までが、不幸であったとは思わない。けれど人生で一番輝かしい、青春というものは、確かに彼女にとってあの日々のことだった。
自分を訪ねてきた青年は、神妙な顔でティーカップの水面を見つめている。ああ、本当に。彼女はぼんやりと、そう考えていた。
あの方によく似ている。身長も伸びて、大人になった。
故郷の街から遠く離れた、なにもかもが懐かしいもう一つのふるさと。遺す相手もおらず、打ち明けようにも人を選ぶ記憶。
あの記憶を共有できる、そんな相手の来訪は、確かに女性の心を過去に飛ばしていた。話せてよかった。心からの謝辞を、女性は青年に投げかけた。
「お会いできて、よかったです。マルセル様」
艶やかに伸ばした金の髪を、昔のように一つにくくって。すっかり大人びた顔は、微笑めば人懐っこい少年の面影をのぞかせる。
こちらこそありがとうございました、そう言って青年は頭を下げた。
「あのときは、そんなこと考える余裕がなかったけど……今になって、もしかしたらって思って、それで。もう、遅すぎましたけど」
守られていたことに気がついたときには、知る人は誰もいなかったから。寂しそうに微笑んだ顔は、互いの頭上に流れた時間を物語る。
知りながら、なにもできなかった。自分のことで精一杯で、なにも気がつけなかった。そんな負い目を背負って、これから自分は残り少ない生を、そして彼はまだまだ続く長い時間を、それぞれ駆け抜けるのだろう。
そろそろ戻らないと。そう言って立ち上がった彼は、一時的な聖地脱走というベテランにあるまじき所業に及んでいるらしい。
「まだ残ってるんですよ、ゼフェルに教わった秘密の抜け道」
みんな知ってて、誰もふさごうとしないんです、あのころからずっと。茶目っ気たっぷりに微笑まれて、女性はあらまあとほころぶ口元に手を当てた。
初出:2017-8 同人誌