ベランダの柵にラティスをくくりつけ、植木鉢をぶら下げてハーブを育てていた頃から一年ほど。ようやく枯らしっぱなしの奴らを片付けた。
仕事の忙しさとかストレスだとか何だとかでほぼ放置することになり、命の残骸が圧を放つ場所になって、さすがに退職もしてつかの間の自由を謳歌できるようになったんだからどうにかせんとな……と。
で、片付けちまったら片付けちまったで、やっぱり寂しくもなるわけで。
そんなわけで、ホムセンへ土だのを買い出しに行く。
前はハーブだけだったのが、今回はちょっと花とかそういう方面もやってみたいということで、土も少し多めに。

なんというかこう、“自然”に対するほのかな憧れみたいなものは子どもの頃からあったと思う。
T中芳樹御大が「本好きの子どもの友達は隣の太郎よりベルリンのエミール」って前に話していたけども、私の場合もマジでこれで、「隣の花子よりやかまし村のリーサ」だった。
あのシリーズはリンドグレーンの子ども時代の回想みたいなものだから、当然テレビもない時代が舞台なわけで。自然の中の閉じたコミュニティで半ば強制的に構築される濃い関係性(ブリッタとアンナの二人とも好きだけどアンナのほうがちょっと余計に好き、っていうリーサの心情、今思い返すとなかなかリアルだと思う。二人とも平等に好き、じゃないんだよな)みたいなものに、ちょっと交ぜてもらいたかったなぁ~~~~みたいな気持ちはあった気がする、私だって稲わらの中で内緒話しながらお泊まり会したかったよ。

ヨーロッパ的な所謂丁寧な暮らしに憧れて、「ヨーロッパの田舎の村で行われる保存食作り」みたいな動画を延々と見てしまう……みたいな波が定期的にやってくるんだけども、たぶんあの頃の亡霊だと思っている。

で、じゃあ田舎暮らしが自分にできるかというと、99%無理なのである。
昔通った小学校への通学路は、当時はもう一歩道から外れたら藪と林という状態で、運が悪いと塀からアオダイショウがぶら下がっていたり道の端にヤマカガシがいたりとスリル満点だった。一切ありがたくないスリルである。こちとら乱歩の少年探偵団シリーズで「部屋に置かれた樽の中に行方不明になった友人がいるかもしれないよぉ~と匂わせておいて思い切って倒してみたら大量の蛇が!」ってシーンでマジ泣きしかけた人間だぞ怖いんだよ蛇。
「地元の再開発」というとやっぱり印象アレだし、「こんなとこに新築物件ボコボコ建ててどうすんだよちょっと外れたら空き家まだまだ残ってんのに」とは思うんだが、それはそれとして「もうこの道を蛇の気配におびえながら駆け抜けなくてもいいんだな」という安心感が勝ってしまう。

そして、「まあそもそも車の運転という行為自体に恐怖を覚える人間だもんな無理だよ田舎暮らしは」と思いつつ、歩くだけで服やマスクにくっついてくるちっせぇ羽虫を払い落としつつ帰ったのでした。

でも、昔憧れた暮らしの亡霊みたいなものって時々出てくるんですよね。自宅のラグを裂き織りのにしたのは『やかまし村』に出てきた「ぼろ織りのじゅうたん」の影響だし、苺柄のグラスを見ると「NANAだ……」ってうっかり買いかけちゃう。
でも、そういう憧れた生活ってね、全部取り入れると確実に喧嘩すんだよなぁ。どっとはらい。