本丸は今日も素麺日和

・2015年の8月発行の本の再録であるということを前提に読み進めてください

 寸胴鍋の前には熱気が満ちている。火を止めて菜箸で鍋底をひっかき、燭台切光忠はまくり上げていたジャージの袖を下ろした。
「長谷部君、行くよ」
「ああ、こちらも大丈夫だ」
 伸ばしたジャージの袖で手の平を覆い、鍋を持ち上げる。勢いよく蛇口から出る水で湯の温度を下げつつ、シンクに準備された大きなザル目がけて傾けると、真っ白な滝と一緒にもうもうと湯気が上がった。水でざっと鍋に残された麺をさらい、ざるの上に二度注ぐ。
 腕まくりをした長谷部が、出陣中もかくやという真剣さで麺のもみ洗いを始める。ガラガラという音を立てて流しの横に置かれたのは、たっぷりの氷が入った巨大ボウルだ。ありがとう伽羅ちゃん、という光忠の言葉には答えずに鼻を鳴らすだけの大倶利伽羅の腕には、いつも以上に龍の姿が露出している。
 季節は夏。大量に送られてきた素麺の箱は、この大所帯ですらしばらく保つほどで。必然的に昼食メニューはだいたい固定されていた。
 光忠のいたコンロの隣で、同じく火に掛けられた寸胴鍋が湯気を吹き上げてカタカタと蓋を鳴らす。赤い紙テープの山をダストシュートに投げ入れつつ、歌仙が声を張り上げた。
「こっちも沸いた。茹でるよ」
 茹で時間は勘と経験にまかせ、袋に書かれた茹で時間は無視すること。手を突っ込める程度に水で冷ましたら、力を込めて入念にもみ洗いをすること。氷水で麺の芯まで一気に冷やすこと。以上が幾度かの挑戦と、ネットの海を泳いで得た情報から、厨房担当が得た素麺作りのコツだ。そして、この本丸では素麺に対する常識がもう一つある。
 麺はまかせたよと言い残し、めんつゆボトルを手に光忠が厨房から出ると、食堂にはもう短刀たちがあらかた揃っていた。薬味を準備していた薬研が、麺を茹でている間に彼等を集めていたのだという。他の居残り組も、やはり彼が集めて回っているようだ。恐らくそこまで時間はかからないだろう。
 テーブルの上には、薬味を入れた皿が押し合いへし合い並んでいる。大葉、茗荷、浅葱、ワサビ、おろし生姜、大根おろし、練り梅、納豆、微塵に刻んだ夏野菜を昆布で和えたもの、じゃこと葱と油揚げの炒め物、茹で鶏、ラー油、煎り胡麻、茄子の揚げ浸し。ほとんどが作り置きだったり出来合のものばかりとはいえ、今日は二つほど薬味の種類が多い。
 この素麺責めが始まった最初の頃は、オーソドックスな薬味しか頭に浮かばず、大葉と茗荷くらいしか準備していなかった。しかしそんなあっさりとした単調な食事続きでは、まあ作る側の苦労は知っていてもブーイングは出るわけで。栄養バランスや午後に必要なスタミナの問題もあって、薬味の種類はいつの間にか十種類以上用意するのが当たり前になっていった。
「何か、持ってく?」
 くい、と光忠のジャージの裾を引っ張った小夜の後ろで、残りの短刀たちも指示を待っている。
「そうだね、氷水と、それから麦茶をみんなにはお願いしようかな。コップもいいかい?」
 厨に戻ると、麺を締めて一息ついた長谷部が麦茶のコップを呷っていた。真ん中に置かれたテーブルに、大倶利伽羅が素麺用の大きめの深皿を所狭しと並べている。
「圧切。第二陣だ」
「ああ、来い」
 コンロの火を止めた歌仙の声に答え、長谷部がジャージの袖でぐい、と額の汗をぬぐう。熱気と湯気に直撃される作業だ、扇風機をフル稼働しても焼け石に水である。
 いくら大きな寸胴でも、男所帯数十人分の素麺を一度に茹でるのは不可能だ。大きな寸胴鍋に限界まで素麺を入れるのを二回、それでやっと追いつく量が茹でられる。今日は四つある部隊の内、二つが出陣や遠征に行っているだけまだ楽だろう。
 また麺との格闘を始める長谷部の後ろで、光忠は第一陣の分を深皿に分け始めていた。冷蔵庫で押し合いへし合いしている水出し麦茶のポットは、重いからと大倶利伽羅が出してやっているらしい。
 製氷器の前では、乱と厚が水差しの中に氷を放り込み、その後ろでは、外から戻って酒飲み連中のアイスペールを拝借してきた薬研が順番待ちをしていた。コップを手分けして持ち出す他の短刀たちを、薬研に呼ばれてきた鶴丸や蜻蛉切たちが手伝っている。
「燭台切。こっちも上がったぞ」
「オーケー、じゃあ持っていこうか」
 人数分の箸、コップ、麦茶のポットと氷、めんつゆと薄める水、全て広間にセッティングされた。手分けをして素麺を入れた深皿を運べば、広間に集まっていたメンバーがバケツリレーのようにテーブルに並べてくれた。
 これで、すべての準備が整った。いただきますと手を合わせれば、各々の箸が一斉に薬味の皿に伸びる。
「まず何にしよっかなー。鶏と、ラー油と、それから……」
「厚、野菜も食べなさい」
「ああ、全くだ」
「そういう薬研だって、浅葱しか野菜入れてないじゃん」
「鳴狐、そのお揚げを私にも……」
「葱入ってる。ダメ」
 一段とにぎやかな粟田口を余所に、光忠の斜め隣では、獅子王が薬味の山を前に思案に暮れていた。
「この、いろんな野菜のネバネバしたの、だし、だっけ。北の料理なんだって?」
「うん、茄子と胡瓜とオクラと、茗荷に大葉ね。がごめも来てたからちょうど良いと思ってさ」
 北といっても、自分たちがいた場所とはまた違う地方の郷土料理だ。みじん切りにした夏野菜や昆布などを調味料と和えたもので、お中元に入っていた高級昆布もこれ幸いと使わせてもらっている。
「山伏くん、昨日は切るの手伝ってくれてありがとう。助かったよ」
「カカカ、なに、なかなか良い精神統一になった。また作るときも拙僧任されよ」
 野菜のみじん切りも、大量になるとなかなかの苦行になる。豪快に麺をすする山伏に礼を言い、光忠もつゆの中に麺を放り込み、油揚げと具入りラー油をトッピングした。
 隣を見れば、大倶利伽羅の椀が目に入る。大葉と大根おろしと胡麻しか入っていない中身に、大丈夫かと心配になるが、先に動いたのは、大倶利伽羅の反対隣に座っていた長谷部だった。
「肉と油も入れた方がいいんじゃないか。これから出陣が控えているだろう」
「……何を入れるかは俺が決める」
 むすっとした大倶利伽羅の椀に、長谷部が黙って鶏肉と茄子をどさっと突っ込んだ。あ、という声が隣からしたが、光忠は気にせずに自分の椀に取りかかる。ざっと混ぜて一気に麺をすすると、午前の出陣の疲れと夏の暑さへの不快感に浸食されていた体に、冷たさと塩分がじわりと浸みていった。
「いやぁ、伽羅坊たちは元気だな。結構結構」
 そう言ってぼやく反対隣の鶴丸の椀には、梅に納豆、そしてだしがどっさりと入っている。
「鶴さん、ネバネバばっかりだね」
「ネバネバしたのと酸っぱいのが夏には効くって聞いてなぁ」
 夏になり、最初の数日ははしゃいでいた鶴丸も、今となってはいつもの覇気がない。上半身裸で水鉄砲片手に短刀たちを従えて外に飛び出した後しばらく、日焼けで全身を真っ赤に染めて悲鳴を上げながら氷嚢まみれになっていたのが、軽いトラウマとなっているようだ。
「素麺かぁ。美味しいけど、たまにはうどんも食べたいね。コシのあるやつをきゅっと冷やして、醤油だけでさ。ぶっかけ、ってね」
 ふふ、と笑う青江を、じろりと長谷部が睨め付ける。教育的指導でも飛ばすのかと思いきや、次の言葉と共に鳴らされた戦いのゴングに、光忠は目を剥いた。
「なんだ、そんなにコシ、コシ、と。偉そうに」
「そうばい。うどんは博多が歴史も味も一番たい」
 粟田口のエリアから、元気良く長谷部に賛同する博多の声が広間に響き、視線が三人に集まる。瞬間、目の据わった石切丸と太郎太刀、次郎太刀、鯰尾の顔を見て、光忠はまずい、と呟いた。
「はいはい、熱くならないの」
「東での暮らしが長いせいか、どっちかと言うと蕎麦派なんだがなぁ、俺は」
 茶をすすり、横から口を挟んできた鶯丸を大慌てで止める。不毛な争いは初期消火が第一だし、麺の好みで仲間割れなんて格好悪いことこの上ない。
「……美味ければなんでもいいだろ」
 隣から聞こえた小さな声に、全くだよと頷きながら、話を逸らす材料を探す。脳内の在庫リストをめくっている内に思い当たった食品名に、ひっそりと笑いを漏らす。注目、と声を上げると、広間にいる全員の目が光忠の方を向いた。
「温玉入れる人いる? 先着で十個限定ね!!」
 今や厨のお飾りとなっている、五合炊き炊飯器。人数も増えてお蔵入りにされそうなのを哀れんで、保温調理とやらに挑戦して温泉卵を山と作ったのは、つい三日前のことだ。熱を入れた卵は足が速くなる、そろそろ食べなくては限界だろう。
 光忠の声に、何人かは勢いよく、何人かは遠慮がちに手を挙げる。広間に響くじゃんけんのかけ声を背中に聞きながら、光忠は冷蔵庫に向かった。

おしまい