先日のエアブーでネップリ公開したものです。
ポーの一族的な感じで、時代を渡り歩いては通りすがりの人間ちゃんに強烈な印象残すだけ残して去っていく刀剣男士が見たいという一心で書きました。
内容から察せられるように審神者じゃない人間がバカスカ出ます、平成の時事ネタもバカスカ出してます。
この話に同じシリーズからもう一編と、もう一編ネタ出し中のへしさに短編集から書けたところを抜き出したまとめ冊子を27日の閃華で出します。無配のため通販はなしです。無配だってのに50頁弱あります。
ラスト一編は別本丸の別の刀剣男士との刀さに(歌さに)も含みます。よかったらもらっていってください。後々収録した別の話もこっちに載せるかもです。
当日のサークル参加情報はくるっぷや支部にまとめます、そちらでご確認ください。
それでは当日よろしくお願いします。二日前に引っ越し運び出しRTA済ませたばかりなので、スペースで屍になっているかもしれませんが……
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苺味のプルースト効果
人工的な香料に支えられた、苺味。そのキャンディをなめるたび、私はいつも、あの年の冬を思い出す。幼いころの断片的な記憶はすべて、一人の「おじさん」の姿を取った。
冬休みが終わって、少したったころの連休明け。確か雨は降っていなかったはずだ。朝のニュースを見て、母が悲鳴を上げたことを覚えている。
神戸に住む叔母さんの名を口にして、電話に向かって走る母とその背を追う父。つけっぱなしのブラウン管テレビのなかでは、激しく揺さぶられるどこかの部屋で、本棚が倒れていくところが映っていた。
空気が春めいてきた、明日は火曜日だけどお休みというある日、保育園に迎えに来た父は少し怖い顔をしていた。焦ったように帰りを急ぐ彼は、私の話に生返事を繰り返していて、郵便受けの夕刊を慌てて掴んで何やらバサバサとキャビネットから出したファイルをめくった。そうして、いつもより早めに帰ってきた母と一緒にどこかに電話をかけては安堵のため息をつく。ピリピリとした空気に硬直していた私を見て、「ごめんね、今日は出前取ろうか」と母は眉尻を下げた。
今であれば、あのとき何が起きていたのかは理解できる。避難所にいた叔母さんは数日後に大行列の公衆電話から無事を伝えてくれたし、官公庁勤めが多かった両親の大学の同期たちは運良く事件に巻き込まれずに済んでいた。
でも、当時五歳だった私にとっては何も分からない、ただ大人たちが怖い顔をしていた日々でしかなく。
そのうえ、その直後の卒園式のあとに「もうすぐみなさんは保育園で一番のお兄さんお姉さんになります。この園での最後の一年間です、頑張ってね」という園長先生からかけられた言葉に素直にビビった私は、数年ぶりに行き渋りをぶりかえさせたのであった。
「紗友里! さゆちゃーん!」
見当違いの方向から、私を捜す父の声がする。マンションの階段の踊り場にしゃがみ込み、膝小僧に顎を押しつけた。
分かっている。父の仕事は今が忙しい時期だ。自分のわがままで迷惑をかけているなんて、それくらい。それでも、一度腰を下ろしてしまったら、もう起き上がるのが難しい。
父の声はまだ遠い。なのに、誰かの足音がごんごんと階段を下りてくる。いた、という声と一緒に、スーツのズボンが目の前に現れる。呆れるような、からかうような笑い声が、上から降ってきた。
「こら、親御さんが捜しているぞ」
マンションの同じ階に住んでいた、「長谷部のおじさん」だった。良くも悪くも私を子ども扱いしないのにというか、だからこそというか、私は彼にやたらとなついていた。彼と一緒に暮らしていた「あっくんお兄ちゃん」には、珍しいなと笑われたけれど。
行くぞ、と差し出された手のひらをむすっとした顔で見つめ、私はそっぽを向いた。
「やだ……」
あと一年経ったら、小学校に行かなくちゃいけない。それが私には怖くてたまらなかった。
今では考えられないようなことだけれど、当時は保育園に通う子どもは――少なくともうちの地元では、幼稚園のそれよりずっと少なかった。しかもうちの保育園は、私の通うことになる小学校の学区外にあったから、同じクラスのほとんどの友達とはお別れすることになるだろう。
「……さゆ、ずっとコアラ組がいいもん……」
保育園に行けば行くほど、パンダ組(年長クラス)に進む日が近づいていく。卒園して、小学校に進めば、ますます家で過ごす時間は減っていくだろう。お姉ちゃんになってしまうのだから。
あの冬の日の朝、パンダ組のタケくんはお母さんにしがみついて離れなかった。もうすぐ小学生でしょお兄ちゃんになるんでしょと、泣きそうな顔のお母さんは彼を引き剥がして、逃げるように駅への道を走っていった。辛そうな先生たちの「お父さん確か」「単身赴任だっけ」というひそひそ声は、まだ覚えている。
つい先日のあの日、両親が握っていた受話器からは「いやぁ……寝坊で一本逃してさ、いつものに乗っていたらどうなっていたか。時計見間違えた女房に感謝だよ、はは」という語尾の震える大きな声が聞こえてきた。
そういうものは一瞬なんだと思った。ふざけて背中を押されるような、そんな気まぐれみたいなことで、とてつもなく恐ろしいものが、全部全部持って行ったり、持って行かなかったりしてしまうんだ。大人になると、そういうものを目の当たりにしても平気な顔をしていないといけないんだ。
そんなの嫌だ、怖い。とうとう泣き出した私の支離滅裂な言葉を、おじさんは黙ってしゃがみ込んだまま聞いていた。
「……確かにな。俺も怖いし嫌だよ」
「……大人なのに?」
「大人でもだよ、取り繕ってるだけだ」
このおじさんは、母みたいに泣いている私の頭をなでてくれるわけでもないし、父みたいに抱きしめて背をさすってくれるわけでもない。でも、その絞り出すように吐き出された一言に、どれだけ私の心が軽くなっただろう。
「……荷物検査はされるか、園で」
にもつけんさ。難しい言葉をただ復唱することしかできない私に、おじさんはううんと唸りながらバッグの中身をごそごそとまさぐっている。
「あー……保育園で、先生にカバンの中に何が入っているか全部見せなさいって言われるか?」
取り出されたその可愛い藤柄のポーチは、私にも見覚えがあった。そこから小さな粒をひょいとつまみ上げて、手を出せと彼は私に言った。
「ほら、一番奥にしまっておけ」
四角い小さな宝石のような粒が、色違いでふたつ。当時からメジャーだったキャンディをこちらに寄越して、おじさんは内緒だぞと人差し指を口元に立てた。
「御守りだ、バレないようにこっそり食え。虫歯には気をつけろよ」
休みの日の公園で、男の子たちとあっくんお兄ちゃんが遊んでいるとよくおじさんも顔を出す。そうすると必然的に女の子組に付き合わされることになり、「勘弁してくれ」とぼやく彼が私たちにくれたのはいつもこの飴だった。同じ色が入っているキャンディをもらったマミちゃんが、「これハズレだよ」と怒って交換をねだっていたっけ。
苺の赤とマスカットの緑がキラキラときれいで、あっさりと気を取り直した私はそれを通園用ポシェットの一番下に押し込んだのだった。
あっくんお兄ちゃんにとってのおじさんは、どうやら〝パパ〟ではなく本当に〝おじさん〟らしい。両親が話していた、「奥様がお姉さんと一緒に」「交通事故」「お姉さんは離婚されてて」「さゆと同じくらいの歳で」という言葉の意味は全部分かっていたわけじゃなかったけれど、「ああ、お母さんが死んじゃったんだ、自分と同じくらいの子どもでもそういうことはあるんだ」とだけ理解した瞬間の、お腹の中身がどこかに落っこちていくような感覚は嫌というほど頭に残っていた。
今思えば、だからおじさんの一言をすとんと受け止められたんだと思う。
「だが、いいか……あまりひとりで出歩くな。この辺りも物騒だからな」
「ぶっそーって?」
「お化けが出るんだ、刀を持った怖いお化け」
えー、ウソだぁ。なんて言いながら、手を繋いで階段を上る。いましたよ、という声に、父が大慌てで駆け寄ってきた。
「本当にすみません! ご出勤前なのに」
「いえ、問題ありませんよ。何事もなくてよかった」
よかった本当によかったと父に抱き上げられ、もうちょっと捜して見つからなかったら母の勤め先に連絡を入れるつもりだったと言われ。大事件未遂に涙目になりながら、ごめんなさいと謝ったのだった。
怒るよりも、まずは本当に良かったと胸をなで下ろしていた父と、その夜帰ってきた母の様子に、おかしいなと思ったことを覚えている。
そのころ近所で本当に刀を持ったお化け――日本刀を持った変質者が目撃されていたと知ったのは、何年も後、中学校に上がってからだった。
――噂話程度だったんだけどね、落ち武者?みたいな恰好の、身体の大きな変な男が、って。誰かを探しているみたいにうろついてるって……冗談でしょって思ってたんだけど、警察からの注意喚起のチラシがポストに入っててね。
――ほら、長谷部さん覚えてる? 最初に噂聞いたすぐ後ぐらいだったかな、引っ越しのご挨拶に来られて、中学生の男の子もいたでしょ、そうそう厚くん。念のためだけど気をつけてって言って。そのときいろいろお話ししたの、心配だったのか、詳しく聞かれていったっけなぁ。
――あそこのお宅、一年くらいで転勤でまた引っ越しちゃったでしょ? あなた行っちゃやだーって泣いて泣いて大変だったじゃない。そのあとくらいだったかな、そういえば最近聞かないねって麻美ちゃんのママと話したの。
それが、あのときの脱走騒動の話を蒸し返した母の証言だった。
子どもの体感する時間は長い。けれど、日々起きている出来事はあまりにも多く、過ぎ去って後ろを見れば一年も六年もあっという間だ。古くなればなるほど、記憶は場面を切り取るように途切れ途切れになっていく。
それでもあのときの思い出は、後生大事に抱えたまま。気が付いたらいつの間にか、私の年齢は二十を越えていた。
一時は混乱の渦にたたき落とされ、自分たちもこの国もどうなるのかと心の底が冷え切ったあの日から、もう三ヶ月が過ぎた。
いいのかなと思いながら、恐る恐る再び手に取った日常のなかでも、大学四年になりタイムリミットは容赦なく迫ってくる。
「卒論どう? そっち」
「何も見えてない……テーマと方向性以外は何も……」
「見つけちゃった資料のせいで全部ひっくり返ったぁ……」
校舎を出て、御茶ノ水駅へ向かう。湯島の学生マンションに向かう私のために、友人たちも聖橋口まで一緒に歩いてくれるのはいつものことだった。
「そういやジブリの新作行く? あれ来月でしょ?」
「あー、息子のほうのやつでしょ? どうしよっかなー」
「そういやさ、今日しまこと話してたんだけど、あの子今度始まるやつ行きたいって言ってたよ、浅丘ルリ子が主演のやつ。原作書いた人好きなんだって」
「あー、あの草笛光子とかも出てるやつ? まあ、あの子が薦めてくるやつたいてい面白いけど……ファーストデイかなぁ、行くとしたら」
「あーね、普通料金でそう何回も行けないっての。就活もあるし」
「やめてやめて聞きたくない」
氷河は溶けず、未来は見えない。こんな状況で上手いことやれる学生なんて、世間的には難関私立扱いされているうちの大学ですら本当に一握りだ。受験のほうがずっと楽だったなぁとため息をつくと、そういえば、ときーちゃんが話を逸らした。
「卒業旅行さ、どうする?」
「……ねー」
先の楽しい予定を考えることには、まだみんなどこか手探りだ。意味もなく下りていったサンクレールの広場を歩きながら、みーこがむう、と眉根を寄せる。
「次の三月だったら、少し落ち着いてるかな……石ノ森萬画館、大変だったみたいだけどどうなるかなぁ。通販は再開したらしいけど」
「あー、みーこ好きなんだっけ? 特にオタクじゃないし、他のマンガも別に読まないのに」
「まぁねー、いとこのお姉ちゃんが好きでさ、読ませてもらってたの、ちっちゃいころに」
お姉ちゃんもうしばらく仕事大変だし、余裕ないだろうからそのころ再開してたらグッズ買っていってあげたいんだ。そう言って笑う彼女の従姉は、インフラ関係の仕事とだけ聞いていた。
「……まあ、旅行して支援をっていうなら、こっちのお金の心配をまずしなくちゃね……」
「やだー! みーこ助けて、さゆが現実見せてくる!」
ふう、とため息をつきながらそうこぼすと、やめてくれときーちゃんが悲鳴を上げる。バイト以上にまずは就活、そしてそもそも卒論も片付けないと私たちには何もできない。
「あー……もう履歴書書きたくない……証明写真代と交通費だけが無駄になってく……」
「いやそれなー、プリより高いくせにブスに写るとかホント最悪」
「まあまあ、飴食べる?」
「出た、さゆのキュービィロップ。ソーダ味入ってるのあったらちょうだい」
「んじゃあたしレモンで……あたしさゆからもらうまで、まだ売ってるなんて思ってなかったよこれ……そもそもそんな名前なのも知らなかったし」
「意外と売ってるんだよねー」
ひとしきり愚痴を言い合いながら、また階段を上っていく。大学でひとしきりおしゃべりをしつつ作業して、そうしたらお決まりのルートをなぞるように歩き、「また明日」と三方向へと別れる。そんな日々が続くのは、もう一年もないのだ。そこから感じる焦りはまるで、五歳のあのころみたいだった。
千代田線に向かうきーちゃんと、中央線に乗るみーこを順番に見送る。さて私も帰ろうか、と周囲にふっと目をやり、私はそのまま固まった。
黒髪と、左右対称に整った顔、あまりこだわりがなさそうなスーツをまとった長身が、交差点の向こう、臨時改札口側のベンチみたいな石に腰掛けている。
ちょうど信号が青に変わる。私の足は、思わず歩道を蹴って横断歩道の上に飛び出していた。
「長谷部の、おじさん……!?」
「…………は?」
心底度肝を抜かれたと言わんばかりの彼の顔に、一瞬で我に返る。そりゃそうだろう、私はもう五歳の女の子ではないし、そもそもあれからの時間を思えば、彼は保育園児視点どころじゃなく本当に〝おじさん〟になっているはずで、あのころとそっくりとは言えなくなっているはずで……
「確かに、長谷部ですが……どこかで?」
「す、みません……たぶんご親戚……だと思うんです。昔、近所に住んでたおじさんに似て、いて……」
戸惑ったような顔は、私の顔を探るように見つめている。誰かを記憶から掘り起こすような視線に、私はふと、台詞を途切れさせた。
――どう考えてもおかしい。
いくら親戚だったとしても、ここまであの〝長谷部のおじさん〟そっくりなんていうことがあり得るんだろうか。もちろんあれから十六年も経っている以上、私の記憶が補完されてしまっていることもあるんだろうけど。それでも、まるで双子――いや、双子であっても、ここまで同じ顔、同じ声なんて、そんなことが。
「――長谷部、車来たぜ」
ふいに、横から声がかけられた。
「え……」
――珍しいな、長谷部のほうが懐かれるなんて。
短い黒髪、あのころの印象よりもずっと年相応に思えるけれど、それでもやっぱり大人びた笑顔の、中学生くらいの男の子。地元の公立中じゃなくて、どこかの私立中らしいブレザーの制服だけど、間違いない。
あっくんお兄ちゃん、と声に出さないまま呟く。驚いたように目を見張った彼は、ほんの少しだけ名残惜しそうにこちらに頭を下げた。
「……すまないが、連れが来たので」
「――あ」
思わず私は、ポケットから取り出した〝それ〟を差し出していた。偶然あのときと同じ、苺味とマスカット味の組み合わせのキャンディを。
「…………ああ」
ふ、とやわらかくなった視線が、私の顔にピントを合わせたように思えた。
立てられた人差し指が、唇の前にそっと当てられる。あの日と同じ、いたずらっ子のような目で〝おじさん〟は微笑み、身を翻して駆けていった。
同じ組み合わせの飴は、もうカバンの中には残っていない。ポーチから取り出した、赤いのが二つ入った〝ハズレ〟を取り出して一つずつ口に入れる。
「……初恋だったよなぁ、やっぱり」
大事に大事に、赤いキャンディを少しずつ溶かしながら橋を渡る。小さな飴は、それでもマンションに着く前には両方とも後味だけを残して消え去っていた。
「すまん、待たせた」
バタン、と後部ドアが閉まる。シートに身を落ち着けて、へし切長谷部はため息をついた。
「何か話しかけられてたけど、どうした?」
「ナンパか? かわいそうに」
百分の何チャンもないってのに、と運転席で笑う日本号をにらみつけ、厚にならってシートベルトを締める。
「いや……少しな」
ぴり、と袋を破って、緑色のほうを厚の開いた口に放り込んだ。
「うわ、懐かしいなこの飴。一時期常備してただろ、それこそ子どもの相手とかが多いケースで」
「お前な……いくら子どもが苦手だからって安直すぎんだろ」
「やかましい、最近はシールにしてる」
見えない場所で菓子を渡す大人という存在は親としては頭痛の種だとか、一歩間違えれば不審者として通報間違いなしだとか、うっかり喉に詰まらせる危険性がとか、たかが飴でもアレルギー発症の可能性はあるだとか、まあそういった忠告はあちこちから聞いたので。いろんな意味で、短刀相手のようにはいかないのが難しいところだ。やはり厚に任せるのが得策だが、それでも時折例外というものはある。
「日本号、そちらの状況はどうだ」
「ん、はかばかしくはねぇな。学生街ってことで先生がたの利用は多いんだが」
来週くらいからは皇居周辺でも回ってみるわ。少しくたびれた恰好か、ひげを剃って身なりを整えるか、それだけで活動フィールドをがらりと変えられるこの男はなんだかんだで有能だ。
「オレも思ったほどじゃないなー。この辺りの塾に通う中学生なんて、そもそもオカルトチックな噂話どころじゃないみたいだし……学校のほうで、ネットとか触ってる生徒とかにも接触してみるか」
日本号は個人タクシーの運転手、厚は首都圏のあちこちから生徒が集まる私立中学の生徒、そして長谷部は、どこかの会社の営業マンを装ったビジネス街巡り。
時間遡行軍や刀剣男士なんて一般に知られていないはずの時代に流れる、いかにも〝それっぽい〟噂話、その程度のものでも放っておくわけにはいかない。そもそも流れているという事実はどこから来たのか、そしてその源流は、と思えば無理もないだろう。
「九〇年代だったっけ、ちょっと前もあったよな。あれはただの部隊からはぐれた太刀だったけど」
「……ああ、むこうも隠密行動だったからな、かなり手こずった」
噂をすればなんとやら、だった。すんでの所で面影を見いだせたのはよかったが、思い出してとっさに取ったあのときと同じ仕草がどうなるか、長谷部には分からない。いっそあのままドッペルゲンガーのような何かとして振る舞ったほうが――いや、さすがに無理があるか。
「早いものだな、子どもの成長ってのは」
がらにもなく親身になってしまったのは、やはりあの子どもの「怖い」という泣き言が他人事とは思えなかったからか。少し大人びた、あのころの社会に流れるものを敏感に感じ取って泣いていた少女は、今のこの国を前に何を思っているのだろう。
本当に、あのときは大変だった。首都圏のベッドタウンで流れる小さな噂を伝えられ、大きな改変ポイントではないため時の政府の正規部隊も動かせず、何度かの偵察でも尻尾はつかめなかったが厚が子どもたちから聞き出した又聞きの目撃談はどう考えても遡行軍。
やっと尻尾を掴んだあの太刀に、戦闘の意思はなかった。必死に極高練度の短刀と打刀から逃げ、縋るように何かを探していた。今であれば分かる、あれは何らかのトラブルで敵の拠点から分断され、帰れなくなっただけだったのだろうと。
それでも、斬らなくてはいけなかった。あの遡行軍の存在がどのような影響を及ぼすのかが分からない以上、塵も残さず殲滅しなくてはならなかった。たとえその影響が、どんなに些末なものであっても。
その〝些末なもの〟が積み重なった歴史改変により、主は目を覚まさなくなったのだから。
彼女の人生、人格の全てを形成する歴史を洗い出すことは彼女自身でも不可能だ。だからこそ、たとえ「仲間のところに帰りたい」とただ願っていただけであっても、彼女の人生の何らかの〝フック〟となる可能性がほんのわずかであろうとある限り、あの遡行軍は斬り捨てる対象になった。
この任務で自分たちが斬った敵のうち、どれが〝当たり〟でどれが〝外れ〟だったのか、追跡調査はされてはいるが「目星はついてもはっきりとは断言できない」で終わることも多い。悪魔の証明を手がかりなしに追い求めるような日々が、体感時間ではもう何年――何百年続いただろうか。
ふう、とため息をついて、ぐるぐると回る頭をヘッドレストに沈める。空きかけの飴の袋が、指にもてあそばれてくしゃりと音を立てた。
「にしても、ずいぶんと可愛らしいもんを選んだじゃねぇかお前にしては」
「……ああ」
初夏の気温と自分の体温で、少しだけ溶けかけていた小さな飴を袋からはがして口に入れる。
「……主が、昔言っていたんだ。可愛いと」
「好きだったよな、大将。オレたちもよくもらってたぜ、一つずつ派と二個一気派がいてさ」
眼前に落ちている髪がうっとうしくて、ぺいとはらいのけた。「どうして煤って言われるようになったんだろうね、この色。私にはミルクティーとかに見えるなぁ、チャイみたいなうんと濃いやつ」と彼女が愛おしいと撫でてくれた髪は、この時代と立場に合わせて黒く染まっている。
怖い、怖いよとしゃくりあげていた、小さな子どもの顔が浮かんでは消える。触発されたのか素直にこぼれ落ちた、「俺も怖い」という自分の声も。
「こんな味だったのか、赤……苺か?」
「なんだ、主からもらってたんだろ?」
「――ああ」
がり、と奥歯で砂糖の塊をかみ砕く。小さいぶん、消えるのも早い。
「いただいていたのは葡萄味ばかりだったからな。俺の色だから、と」
手に取った袋に紫の飴が入っていると、半分こね、と口に入れてくれるのがいつものことだった。持ち歩いていた時期もあったが、それもあってなんとなく葡萄味以外は口に入れる気がしない。もう片方を適当に誰かの口に入れるか、紫だけのものを見かけたら気晴らしに食べるか、それだけだった。
「……まあ、砂糖の味だな、結局は」
ペットボトルの茶で、甘ったるさを洗い流した。自分にとってのこの飴は、本丸で彼女と食べた葡萄味、それだけである。